・雑記帳
・カルガンの星の歌 (20 Feb 2022) 北京冬季オリンピックが今日、閉幕となる。
大会は北京市と張家口市で開催されているのだが、張家口(ちょうかこう)といえば、「カルガンの星の歌」(佐々木望 著)という短い物語を思い出す。
ちょうど50年前の札幌冬季オリンピックの頃、小学校高学年の国語の教科書に掲載されていた物語で、カルガンは張家口のモンゴル名である。
戦前の話で、主人公の日本人青年が、張家口の万里の長城の上で深夜ひとり、陰山山脈へと沈み行く冬の星座を眺めているところから物語は始まる。
その星々の描写の美しいこと! 子供の頃から、そのような見事な星空を異国の地で眺めてみたいと願っていた。
20年ほど前、中国で仕事をしていた時、国慶節の連休を利用して北京郊外の八達嶺の長城を訪れたが、それより西の張家口へは残念ながら足を伸ばせなかった。
当時は、北京から張家口までの道のりは遠かった。
しかし、北京オリンピックに伴い開通した時速350kmの高速鉄道は、北京駅から張家口駅までを僅か1時間ほどで結んでいるという。
本来ならば、多くの観光客を招き入れ開催される大会であったが、新型コロナウイルスの流行で厳しい入国制限、移動規制が続いている。
遙かなるカルガン。いつかその地を訪れ、星空を見上げる日が来るのであろうか。<出典:小学校国語「カルガンの星の歌」
佐々木望 (学校図書株式会社1971)>・春の蝉 (2) (23 May 2020)
もう50年近く前のこと。東京の世田谷に住んでいた子供の頃。
桜の花が散った4月半ば、日が暮れると、ジィーーーーと虫の声が聞こえてくる。
毎年春に、実家の2軒隣の庭の松の木あたりから響いてくる。
夜なので、どのような虫が鳴いているのか、姿を見たことは一度もなかった。
昆虫図鑑で調べてみると、春に松で鳴くのはハルゼミとあった。
だから、あれはハルゼミの鳴き声だと長いこと信じていた。
春の訪れを知らせるその声を、毎春楽しみにしていた。
しかしその正体がクビキリギスというバッタだと知ったのは、数十年も経ってからである。
ハルゼミが鳴くのは昼間。夜ではない。
クビキリギスは成虫で越冬し、春になって最初に夜鳴く虫であるという。
その家には、尺八界の長老、磯野茶山先生が住んでおられた。
広い庭のある純和風の家で、玄関先には信楽焼の大狸があったのを覚えている。
さらに磯野先生が居住される前は、作曲家の古関裕而・金子夫妻が新婚時代、住んでいたという。
虫の声もだが、夜には磯野先生の尺八の音が朗々と響いていたのを今でも思い出す。
その遙か前の戦前には、同じ場所で古関夫妻のオルガンや歌声が響いていたのであろうか?
今は住む人も替わり、クビキリギスのいた広い庭もなく、街並みもすっかり変わった。
遠い昔のことである。
<春鳴く虫が昔いた場所 2010年撮影
磯野茶山・古関裕而邸跡>・春の蝉 (1) (21 May 2020)
4月後半、自宅近くで、イワサキクサゼミの声を聞くようになった。
ジィーーーーという単調な声。日本最小のセミで、指先ほどの大きさしかない。
以前は、沖縄本島では南部の佐敷町や知念村(現在の南城市)のサトウキビ畑でのみ見られ、夥しい数の成虫が大発生していた。
沖縄本島の中北部地域には、分布していなかったセミである。
このためゴールデンウイークには、このセミを見に知念半島までドライブに出たものである。
しかし何年前からだろうか。自宅のある沖縄本島中部うるま市でも、その鳴き声を耳にするようになった。
知念半島のような大発生ではないものの、すっかり定着しており、今年は近所の空き地の雑草でその姿を見た。
飛ぶのが苦手なセミであり、素手で簡単に捕まえることができる。
このため、沖縄本島での分布域拡大は、人為的なものなのかもしれない。
自宅近くでは、サトウキビ畑が無くなってしまったが、このセミの声が聞こえるようになり、なんともうれしいものである。
<イワサキクサゼミ 2020年>・竹の花・凶事(13 May 2020)
これ以上、悪いことは起きまいと願っていた。
しかし未曾有の凶事が勃発した。
新型コロナウイルスによるパンデミック。
多くの命が日々失われており、全世界規模で社会生活が制限され、経済活動が著しく低迷している。
疫病の流行は、いつの時代でもあるものだが、このようなことが今の現実社会で起きようとは‥
1月初旬に開花したタイサンチクの花は、3月下旬まで咲き続けた。
4月には、竹の本体が目に見えて弱りだしている。
沖縄の片田舎の竹の花が、世界的凶事に繋がった訳ではないが、なんとも嫌な偶然である。
竹林が枯れ落ちる前に、この不安な状況が去り、平穏な日常に戻ることを祈るばかりである。
<花が咲き、枯れ出した竹 >・竹の花(13 Jan 2020)
竹の花は凶事の前兆と言われている。
もちろん迷信なのだが、竹は滅多に花を咲かすことはない。
開花は60年、120年に一度と言われている。
花が咲くと、竹林全体が枯死することが知られている。
幼少の頃(1966年)、白黒テレビで観た「ウルトラQ」に竹の花の話があった。
竹は身近な植物だが、その竹に花が咲くことが如何に特異で不吉なことであるか‥
テレビのなかの作り話なのだが、子ども心に竹の花は深く刻まれることとなった。
そんな竹の花。今日偶然見つけて我が目を疑った。
自宅から少し離れた天願川。
ツルヒヨドリ(特定外来生物)が生い茂る川べりを散策していたところ、黄色い沢山の房を付けた弓なりの奇妙な枝が目に入った。
何だろうと思い、その枝をたどったところ、なんと竹から伸びているではないか!
花を咲かせていたのは熱帯に分布するタイサンチク(泰山竹)だった。
沖縄には本土のような竹林は殆どない。
太々とした竹自体、あまり目にすることはない。
そんな沖縄で竹の花を見るとは驚きだった。
竹の花は凶事の前兆と言うのは迷信。
県民の心のよりどころ、首里城正殿が一夜で焼け落ちた。
沖縄の食文化の中心を担う豚に疫病がはやりだした。
これ以上、悪いことは起きまい。
そう信じたい。
<竹の花 (タイサンチク)>
<竹の花とツルヒヨドリ>
<竹の花 (天願川)>・雨季 (15 May 2018)
沖縄は5月8日に梅雨入りした。本土よりも1か月早く、雨の季節となった。
このあと、夏至(6月23日)の頃まで雨季が続く。
ゴールデンウィーク中、観光地沖縄は比較的天候に恵まれ幸いだったが、私の方は、連休前に急遽、長期出張することとなり、沖縄を離れた。
行き先はタイのバンコク。スワンナプーム空港に着いてみると、生憎の雨模様だった。
バンコクもちょうど雨季に入ったとのこと。
例年よりも早く、4月下旬に雨の季節を迎えていた。
前回タイに長期滞在した時(2011-12年)は、折しもバンコクとその周辺地域を未曾有の大洪水が襲っていた。
大陸の洪水は、日本とはまるで規模が違う。
広大な大地が浸水し、泥水は数週間ひかない。
あの時は、北方から洪水がバンコクのホテルや職場近くまで押し寄せて来ており、到着の翌日、逃げるようにして近隣のナコンパトム県へ避難。
そこで1か月半を過ごした。
タイ中部は今年、乾季にも雨が降り、熱帯果物の収穫時期が遅れるなど、天候の具合がいつもの年と違うと言う。
日本も春先から異常な暑さ。
地球温暖化の影響が、目に見えて現れてきていることを感じる。
<洪水のバンコク 2011年>
<タイのスコール 2018年>・冬至のグリーンフラッシュ(22 Dec 2015)
例年になく暖かな師走である。
冬至の今日、那覇の気温は25℃を超え、夏日となった。
日中、汗ばむ陽気。
夜になっても、気温は20℃近くある。
冬至ながら、沖縄の日の入りは遅い。
那覇の日没は17時42分。
関東では16時半には日が沈み暗くなるのだが、沖縄では、それよりも1時間以上遅い。
この季節、曇り空が多いものの、今年は運良く冬至の太陽が東シナ海へ沈むのを眺めることができた。
17時半すぎ、夕焼け雲があかね色に染まる。
那覇港のキリンのようなガントリークレーンをシルエットに、丸い太陽が水平線へと近づいて行く。
冬なのに珍しく洋上に雲がない。
これは見えるな!と思った。
すると、消えゆく太陽の最後のひとかけらが緑色に灯った。
久しぶりに見る、見事なグリーンフラッシュ。
暖かな冬を象徴するような日の入りだった。
<那覇港の夕映え)>
<冬至のグリーンフラッシュ>
・ウツボカズラ(ネペンテス)(1)(9 Aug 2015)
以前は夏になると、東京・新宿のデパート屋上では、沢山の食虫植物が売られていた。
その中でも、ウツボカズラ(ネペンテス)は目をひく存在だった。
子供の頃、何度か買って育ててみたが、これがなかなか難しい。
細長い葉先の蔓にできる壺(捕虫袋)が、膨らむ前に褐変して枯れてしまう。
もともと多湿な熱帯の植物。
日本本土の気候だと、湿度が足りないのである。
そこで、ガラス水槽に入れ保湿したところ、ようやく小さな捕虫袋がついた。
もう40年も昔、東京・世田谷での話である。
亜熱帯の沖縄は、気温だけでなく、湿度も高い。
冬でも、手が乾燥で、あかぎれひび割れることはない。
一眼レフカメラや双眼鏡などは、デシケーターに入れなければ、1年でレンズにカビが生える。
これは、ウツボカズラにとっては、好ましい気候である。
18年前、沖縄本島中部に家を建て、その翌年、近くのホームセンターでウツボカズラを2品種買った。
これらが今も元気に繁茂している。
特にヒョウタンウツボカズラの親株は、洗濯物干し場のすみ、3mほど伸びた観葉植物コンシンネに盛大に巻き付いている。
年中、野外にあるのだが、冬場でも次々と捕虫袋が形成され、常時100以上の壺がぶら下がっている。
子供の頃、あれだけ苦労したウツボカズラ。
ここ沖縄では、うれしいほどよく育ってくれる。
<ウツボカズラ(自宅の物干し場)>
<ウツボカズラ(自宅にて)>・ウツボカズラ(ネペンテス)(2)(9 Aug 2015)
タイは、ウツボカズラの自生地で、栽培家も多い。
以前、仕事でタイに4ヶ月滞在した折り、宿としていたホテルの一室で、ウツボカズラを栽培していた。
日本で一鉢5,000円ほどする品種が、バンコク郊外で1/20の250円の安値で売られており、つい買ってしまったのだ。
帰国の際、サイティス(CITES)や植物検疫証明書を取得して、持ち帰ろうとも思ったのだが、いかんせん荷物が多かった。
あきらめ、バンコクの職場へ置いてきた。
長らく、そのことが悔やまれた。
しかし、最近は便利なものである。
様々な品種のウツボカズラが国内栽培されており、ネット通販で簡単に購入できる。
沖縄のような離島でも、注文すれば元気な苗が数日で届くので有り難い。
http://www.rakuten.co.jp/liberalfarm/
タイで手放したのと、ほぼ同じ品種も入手できた。
けれども、ウツボカズラに対する家族の評判は、残念なことに好ましくない。
自宅に蚊が多いのは、壺にボウフラがわくせいだ!と、疑われている。
そのようなことは(沖縄では)ないと思うのだが…
<ウツボカズラ(タイのホテルにて)>
・サトウキビ畑(24 Nov 2011)
11月下旬になると、沖縄ではサトウキビの穂が開き、緑のキビ畑が一変する。
大空に向け立ち上がった沢山の穂先が、夕日に照らされ輝く光景は、何とも美しい。
晩秋から初冬にかけての、沖縄の風物である。
ところが仕事の都合から、もう何年も、キビ畑が白銀色に変わるところを見ていない。
今年も沖縄を離れ、10月にタイの片田舎に来てしまった。
洪水騒動のタイ中部は、11月には乾期に入り、ようやくスコールがなくなった。
連日、眩しい夏空。
雨は全く降らず、日中の気温は30℃を超える。
沖縄とは違う気候なので、キビの穂は、まだだろうと思っていたところ、次女の誕生日に合わせ、宿泊場所裏手のサトウキビ畑で穂が出だした。
沖縄と同じなのでうれしくなり、田舎道で一人、歓声を上げた。
タイでもキビの穂が開きだしたよ!と、次女へ誕生日にメールを送った。
そんな彼女は、秋穂という名前を持っている。
今年も遠く離れた場所から、おめでとうの言葉を伝えた。
<タイ・カンペンセンのキビ畑>・チャチャ(06 May 2009)
チャチャは柴犬の雑種。
不要犬として、ペットショップの片隅に置かれていた子犬だった。
教えなかったので、お手もできない。
けれども、自分の仕事が何であるのか、よく心得ている犬だった。
家族以外には火がついたように吠え続ける。
不用意に庭へ入り、何人噛みつかれたことか!
大接近の火星を観測するため来られた南さんにも、牙をむいて吠えたてていた。
茶々坊とも呼ばれていたが、実は女の子だった。
愛玩犬ではなく番犬だった。
だから、瞬間風速50メートル以上の大型台風襲来の時にしか、屋内に入れてもらえなかった。
鎖につながれることなく、芝生の庭の濡れ縁で、毎日、外を眺めて暮らしていた。
多くの時間、ひとりぼっちだった。
散歩が大好き。
星空のもと、よく一緒に歩いた。
不思議なことに、若犬の頃には、人が感じられないものを察知出来た。
暗いサトウキビ畑や誰もいない路地裏など。
散歩の途中、足を止め、一点を見つめて低く唸る。
そんな時は、回り道をして帰った。
何度も何度も振り返りながら歩くチャチャ。
一体、この犬には何が見えていたのだろうか?
雑種だったからか、熟齢期まではとても元気だった。
病気らしい病気もしなかった。
けれど年月が経ち、娘や私の歳をも追い抜いていった。
濃い茶色の短毛は、いつしか薄茶に変わってしまった。
単身赴任先や長期の海外出張から帰ると、跳びはねて喜んでくれる。
「ゴールデンウィークには帰るから。それまで何とか頑張って!」と祈っていた。
5月1日の夕刻、自宅に戻る。
衰弱した身体ながら、盛んにしっぽを振ってくれた。
こんなに青空の多い連休は、この30年の沖縄で、初めてだった。
例年ならば、入梅のため愚図ついた空模様なのに。
五月晴れの「こどもの日」。
チャチャは朝日に包まれ天国へと旅立っていった。
暁天に金星や木星が輝く頃は、重苦しい息づかいがまだ聞こえていたのに…
うりずんの眩しい日の光の中、一番のお気に入りの濡れ縁の上。
じっと動かなくなっていた。
「もう苦しいことは何もないよ…」
触るとまだ温かかった。
<2008年9月 夏やせした茶々坊>
<2009年5月3日 もうすぐさよなら>
<2009年5月5日 朝日の中で>
<2009年5月5日 花に囲まれ>
・ベトナムの南十字(02 Feb 2008)
年が明け、ベトナム南部では、南十字が夜半の空に懸かるようになった。
ここホーチミン市(サイゴン)から見る南十字は、高度が20°ほど。
沖縄に比べれば高いのだが、それでも街中では、空がひらけていないと、南十字を見ることはできない。
長期滞在するホテルの予約の際、「今年も南十字を見たいので、最上階(7階)の南東側の部屋をお願いします」と伝える。
「ベトナムでも南十字が見えるんですね!」と、ホテルの日本人スタッフから返事のメールをもらった。
心配なのは、前回3月にベトナムを離れた時、ホテル南東側の建物が取り壊されていたこと。
ホーチミン市は、ベトナムの急速な経済成長と外資の投入で、建築ラッシュに沸いている。
「隣りのビルは9階だそうです」とメールにあり、気がかりだった。
幸い、10月初旬にベトナム入りした時は、まだ基礎工事の段階。
5ヶ月の滞在中は、なんとかなりそうだと楽観していた。
ところが、その後、あれよあれよと工事は進んだ。
11月下旬に雨期が終わり、12月明け方の空に南十字が見え出すと、3階部分まで立ち上がった。そして年が明けると一気に7階まで進む。
ホテルの窓辺から、最後に南十字を見たのは、1月中旬、8階が造られている時だった。
ベトナム最大の都市ホーチミン市。
あと10年も経てば、この街は上海のような高層ビルの街にかわるのだろうか?
<サイゴンのホテルの窓から>
<サイゴンのホテルの窓から>・しし座流星群(18 Nov 2007)
今年もしし座流星群の極大日がやって来た。
母彗星が遠くなり、近年は多くの流れ星は期待できなくなった。
しかし、しし座群といえば、思いだすのは2001年の大出現であろう。
その時、私は中国東北部の大連に長期滞在していた。
遼東半島の南端に位置する大連は、旧満州のうちでも比較的暖かいとされている。
しかし、晩秋の11月下旬ともなると、夜はマイナスまで冷え込む。
厚手のダウンジャケットが欲しいと思っていたところ、“今なら天津街が安い”と言われ、知り合いの中国人二人と買いに出た。
大連有数の商店街である天津街は、不思議なくらい殺気立っており、どの店も投げ売り状態だった。
そして驚いたことに、その翌週には天津街は瓦礫となり、忽然と消えてしまった。
再開発の強制立ち退きとのこと。日本では考えられない光景だった。
大連は、高層ビルが建ち並ぶ500万の大都市。
当日は靄もかかり、条件は決して良くなかったが、沢山の流星が楽しめた。
空が開けたフラマホテル前の公園で、次々と天空を駆ける光跡に一人で歓声を上げた。
翌朝、職場でもしし座群の大出現が話題になった。
けれども、知り合いの中国人で、流星群を見た者はいなかった。
みな、朝のTVニュースで知ったとのこと。
誰もが悔しがることしきりであった。
<中国東北部の港町・大連>・スコール(12 Nov 2007)
10月初旬、残暑の沖縄を離れて、今年もホーチミン市(旧称・サイゴン)に入った。
沖縄は好天続きだったが、ここベトナム南部は雨期の最中。
けれども、日本の梅雨と違って、終日雨が降り続くことはない。
1日のうちでも朝は青空。熱帯の太陽が雲をつくり、午後に雷雲が発達する。
雨は決まって夕刻にやって来る。
突然風が吹き出すと雨の合図。激しい土砂降りに見舞われる。
いわゆるスコールである。
日本でスコールと言えば誰もが雨をイメージする。
しかし本当の意味は、熱帯地方で雷雨を伴い突然吹く“強風”のことなのだそうだ。
ベトナムではオートバイが庶民の足。
露店も多いので、雨が降ると大変である。
喧騒の街が一層騒がしくなる。
そんな雨期も、もうすぐ終わる。
日本で西高東低の気圧配置となり、木枯らしが吹き出すと、ここベトナム南部は乾期へと入って行く。
<スコールのサイゴン市内>・台風(13 July 2007)
台風4号(マンニィ)が沖縄本島を通過している。
現在の台風の気圧は930hPa。外は猛烈な暴風雨。最大瞬間風速は60m/sを越えたかもしれない。
雨が白い帯となり、複雑に舞いながら、瞬時に視界から消えて行く。
ゴーゴーと風が唸り、時折、鉄筋コンクリートの自宅が風圧で震動する。
昔、那覇市でアパート住まいだった頃は、今の40cm反射を共同住宅の屋上に雨ざらし同然で設置していた。
このため、台風が襲来すると大変だった。
暴風雨の前には、ブルーシートとワイヤーで鏡筒・架台を簀巻きにして、ブロックで押さえ込んでいた。
しかし、最大瞬間風速が40m/sを越えると、望遠鏡を被うシートが飛ばされることがあって、1991年のリンゴ台風の時には、鏡筒内部にも雨水が溜まった。
1988年に造られた永田光機の40cm反射は、そんな厳しい環境下を9年間も耐え抜いた。
今、台風の目が沖縄本島西側の東シナ海を自転車並の速度で北上している。
4年前の台風では宮古島で風力発電機が倒壊した。
昨年は、出来たばかりの石垣島天文台のドームのスリットが吹き飛んでいる。
台風も大型化して来ているのだろうか?
10年前に自宅を構えてからは、望遠鏡は銀色のドーム内に鎮座している。
台風の強風を考慮した特別仕様のドームながら、万が一のことも考えられる。
無事台風4号が通り過ぎるのを祈るばかりである。
<ドームレス40cm反射(1988年)>
・グリーンフラッシュ(03 July 2007)
6月21日、沖縄はうれしい梅雨明けとなった。
半年以上続いた愚図ついた空模様は、この日を境に好転した。
夏空が眩しく、水平線はカッターナイフで切ったようにシャープに見える。
このような梅雨明け後の澄んだ夕空では、グリーンフラッシュが見られることも珍しくない。
6月28日の夕刻、仕事を終えて帰宅した後、娘二人を伴い自宅から少し離れた小高い丘の展望台へと向かう。
夏至を少し過ぎたばかりで、日が沈むのは遅い。予報では、19時27分である。
息をはずませ展望台に着くと、残念なことに、東シナ海の洋上遙か彼方に積乱雲があって、その頭が水平線上に低く連なっている。
「これではグリーンフラッシュは無理だろう…」と、諦めていた。
ところが、日没最後の残り火は赤みを失い、肉眼でもハッキリと緑色に染まりながら水平線へと吸い込まれていった!
双眼鏡で眺めていた長女は、「初めて見たよ!最後は緑から青っぽい色になったよ!」と、興奮気味に話す。
あまりに明瞭に見えたのですっかり気を良くして、グリーンフラッシュをカメラに収めようと、毎夕展望台へと通う。
似たような日没ながら、その後二日はグリーンフラッシュに恵まれなかったが、三日後の7月1日、ようやく淡い緑の太陽を撮影することが出来た。
夕暮れ時、ニイニイゼミの蝉時雨が心地よい。
沖縄の本格的な夏が始まった。
<東シナ海への落日>
<軽微なグリーンフラッシュ>
2007年 7月1日撮影
・うりずん(16 May 2007)
“うりずん”とは沖縄の言葉で、梅雨入り前の初夏の季節をさす。
乾期のベトナムから戻ったのは3月末。
沖縄は明るい“うりずん”の季節を迎えていると期待したが、今年はどうしたことか、冬の鈍色の空を引きずったような天候である。
気温も平年値を下回る日が多くて、真夏のサイゴンに慣れた肌には北風が冷たく感じた。
それでも1月に開花したヒカンザクラは、あちこちで小さなサクランボを沢山実のらせていた。
4月にはデイゴが深紅の花を付け、イッペー(コガネノウゼン)は造花のような黄色い花を、葉のない枝にポンポンと咲かせている。
スッキリしない空模様のまま大型連休が過ぎた。
星空が広がる晩が極端に少ない…。
そうこうしているうちに、沖縄地方は平年よりも遅い雨季に入っていった。
地球温暖化の影響か、沖縄の気候も変わりつつある。
<デイゴの花>
<能天気なイッペーの花>・椰子の木(18 Feb 2007)
ココヤシは熱帯を代表する植物。
沖縄でもその姿を見ることができる。
しかし、沖縄のココヤシは人の手で栽植されたもので、自生したものではない。
熱帯の定義の一つはヤシが自生出来るか否かである。
亜熱帯の沖縄本島では、気温がたりず、木に本来の樹勢がない。
那覇までの通勤路の嘉手納基地沿いの国道58号にも、ココヤシが街路樹として植わっている。
以前は椰子の実をよく付けていたが、近年はあまり着果せず、葉も疎らで貧相な姿をさらしている。
それに比べ、本家熱帯のココヤシは元気のよいこと。
放射状に広がる葉は日の光をいっぱい受け、その中心には、たわわに実を付けている。
その姿を見るだけで、元気がもらえ嬉しくなる。
ベトナムの南部もココヤシは多い。
ホーチミン市のあちこちで、椰子の実にストローをさしココナッツジュースが売られている。
タイのバンコクで仕事をしていた時、エラク青臭いココナッツジューズを買ってからというもの、長らく口にしなかったのだが、ベトナムではハズレがない。
沖縄でも観光客用に椰子の実が売られているが、全てフィリピン産である。
椰子の実1個が9USドル(1,000円)近くするというと、誰もが目を丸くする。
ベトナムでは、1個が数十円なのだから。
<メコンデルタのココヤシ>
<沖縄のココヤシ>・椰子の島(18 Feb 2007)
もう何年も前のこととなるのだが、フィリピンのミンダナオ島ダバオでしばらく仕事をしていた。
台風被害の多いフィリピンであるが、ミンダナオ島の南部は台風のコースから外れており、暴風雨に見舞われることはない。
そのため、この島のココヤシは驚くほど背が高い。
ダバオ郊外には広大なココヤシのプランテーションがあるのだが、背丈は20〜30m程もある。
最初は、どうやって実を取るのかと思ったが、幹にはくさび状に足場が刻まれており、登って取るのだという。
戦前、ダバオには2万人もの日本人が住んでいた。
祖父は日本人という人にも、何人か出会った。
ミンダナオ島滞在中、NHKの国際放送で「里の秋」の童謡がしばしば流れていた。
“静かな静かな里の秋…”で始まるこの歌の3番の歌詞には、心打つものがある。
椰子の島へ出兵した父親の無事の帰還を母親と祈る内容で、この3番は今では歌われなくなっているという(http://www.momo-mid.com/mu_title/satono_aki.htm)。
ある日、滞在していたホテルの最上階のレストランでのこと。
一人の日本人の老人が、ヤシ林の先にそびえるアポ山(フィリピンの最高峰)を眺めながら、古びたハーモニカを延々と吹いていた。
ウエイターが、「あの人は毎年、慰問に来ているのですよ…」と教えてくれた。
戦時中、多くの日本人が南洋に出兵して、椰子の木を眺めたことであろうか。
言葉では表せない多くの苦難が、椰子の島には今も残されている。
<ミンダナオ島の道>
<ココヤシプランテーション遠望>・旧正月(18 Feb 2007)
沖縄でも旧暦の正月を祝うのは限られた地域となった。
漁師町の糸満では、旧正月は学校が休みと聞いていた。
今もそうなのだろうか?
お盆は旧暦で盛大に行うものの、沖縄でも旧正月の存在感は年々薄くなっている。
一方、東南アジアの国々では、旧正月は変わることのない重要な年中行事である。
ベトナムではテトと呼び、1年で最大のイベントである。
太陽暦の正月休みは元日の1日のみ。
けれどもテトでは約1週間の連休となり、皆、それぞれの故郷へと帰省する。
サイゴンの街では、1月上旬にクリスマスツリーや新暦の正月飾りが消える。
しかし、しばらくするとまたHappy New Yearの飾り付けが始まる。
旧暦になじみのない日本人にとっては、甚だ違和感のあるものである。
しかし、テト前の雰囲気は師走そのもの。
誰もが気もそぞろとなり、仕事も手に着かない様子だ。
日本と同じように、忘年会も頻繁に行われるようになる。
モッ、ハイ、バー、ヨー(1, 2, 3, Dzo)!と、乾杯のかけ声があちこちから聞こえて来る。
テトは、年によって日がことなるのだが、2007年は2月17日で、何故か中国の春節よりも1日早かった。
今年も、明け方の月が細るのを見てテトが来るのを知った。
昔日本でも、人々は空を見上げ、月の満ち欠けと共に生活していたのだと、あらためて感じさせられた。
<旧正月(テト)のにぎわい
サイゴンの国営百貨店前>・サイゴンのクリスマス(25 Dec 2006)
今年も11月に沖縄を離れ、常夏のベトナム・ホーチミン市(サイゴン)に滞在している。
フランス、アメリカの影響が残るサイゴンは、仏教徒が多いながら、クリスマスの晩は大変な賑わいである。
オートバイに乗った家族やカップルが道にあふれる。
宿泊しているホテルが、サイゴン大教会に近いとあって、イブの昨夜は普段以上の喧騒が深夜まで続いた。
明け方にはその騒ぎもおさまり、静けさが戻った。
空には忘れられたように、南十字が低く輝いていた。
<クリスマスイブのサイゴン大教会>・マンゴー(04 Jun 2006)
沖縄でマンゴーの栽培が盛んになったのは、この10数年のことである。
1980年代初めには、当地でも珍しい果物だった。
今では、庭先で栽培している民家も多い。
ただ、開花期の1〜3月、沖縄は雨の多い不順な天候となる。
このため、春先には雨よけのビニールシートをかけないと、露地では結実しない。
ベトナム南部では、11月末に雨季が終わり、しばらくするとマンゴーの花がいっせいに咲き出す。
咲くというよりも、枝先から花が吹き出して、樹木全体が黄色く染まる。
その花数の多さは、沖縄の貧弱なマンゴーの木を見慣れた目には驚くべきものである。
あの木々も今頃は、曲玉を吊したような実を、たわわに付けている頃だろう。
<マンゴーの花(ベトナムにて)>・蛍(04 Jun 2006)
5月、沖縄本島は蛍の季節となる。
以前住んでいた那覇市首里は、特に蛍が多かった。
初めて蛍を見たのは、東京の実家から望遠鏡が届いた日だった。
アスコ・スカイホーク20cmF8ニュートン。
経緯台ながら1970年代末、星野鏡を備えたこの望遠鏡は、沖縄で最も大きなものだった。
大家の庭先で梱包をほどいているうちに日が暮れた。
ふと気が付くと、鏡筒のわきで蛍が明滅していた。
首里あたりの蛍は陸棲のオキナワスジボタルで、清流を必要としない。
20年以上前に住んでいた間借りの裏手は一面のサトウキビ畑だった。
蒸し暑い夜など、窓から蛍火が入り、驚かされたものである。
その後、キビ畑のない首里城近くのアパートに越したが、そこもホタルが多かった。
琉球の時代から続く、細い暗い路地裏に冷光が舞っていた。
石垣島にいた頃は、バンナ岳でよく蛍を楽しんだ。
日が暮れると、自然林のあちこちに蛍火が灯る。
その多くは幼虫で、お尻に発光器を付けていた。
中には小指サイズのビックリするほど大きな幼虫もいる。
発光器が疣のようで、これがホタルかと思うほどグロテスクな姿だった。
今住む沖縄本島中部の自宅の周りにはホタルはいない。
宅地化が進んでいるものの、まだまだ緑が残っているのに何故だろうか?
このため、梅雨の晴れ間には、ホタルを見に古都・首里まで足をのばしたくなる。
<マンゴーの実(沖縄.・うるま市の民家)>・サイゴンの星空(29 Apr 2006)
晩秋から沖縄を離れ、一冬、常夏のベトナム・ホーチミン市(旧称サイゴン)で過ごした。
日本は記録的な大雪だったが、ベトナムも今季は異常気象。
雨季が終わるのが1ヵ月遅く、12月に入ってもスコールに見舞われた。
乾期となり、星空が広がったのは年が明けた1月からだった。
その後3ヵ月は雨の降らない晴天続き。
曇天の沖縄とは対称的な天候で、羨ましい限りだった。
しかしながら、ベトナム最大の都市・サイゴンの夜空は明るく星数は少ない。
メコンデルタ一帯の湿潤な大気に加えて、年末から旧正月にかけては、社会主義のこの国の発展を祝うように、回転サーチライトが夜空を舞った。
天頂まで昇りつめたオリオンを見ながら、毎晩、ベンタィン市場まで歩いて食事に出かけるのが日課だった。
街は東南アジア特有の甘い空気に包まれ、ほのかにニョクマムの匂いが漂っていた。
<サイゴン大教会前のにぎわい>・北落師門(09 Oct 2005)
10月、星数の少ない南の空に、フォーマルハウトがポツンと輝いている。
中国名で“北落師門”と呼ばれるこの星は、古都・長安(今の西安)の北門にその名を由来する。
2年前の秋、兵馬俑が見たくなり西安を訪れた。
シルクロードの出発点となるこの街には、市街地を取り囲む四辺形の見事な城壁が今も残されている。
周囲14km、高さ12m。壁上の幅は12〜14mで、車が通れる広さがある(実際、城壁保守用の小型車が走っていた)。
のんびりした旅だったので、南門から城壁に登って、大陸特有の霞がかった街並みを眺めて過ごした。
けれどもウッカリしたことに、北門は、行き帰りの乗り合いバスでくぐった時にチラリと見ただけで、あまり記憶にない。
今の城壁は明(14世紀)の時代に築かれたものらしい。
よって、正しくはそのものではないと思うのだが、フォーマルハウトを見上げるたびに、「惜しいことをしたなぁ」という思いに駆られる。
<西安の城壁>・夏の終わり(09 Oct 2005)
沖縄の夏は長い。
4月に“うりずん”と呼ばれる若夏の季節に始まり、6月下旬の梅雨明けからは盛夏となる。
そのあと3ヵ月間は天気が良くて、沖縄が一番輝く季節となる。
本土のように冷夏になることもなく、台風以外は、安定した眩しい夏空が続く。
そんな沖縄の夏も、8月半ばにクマゼミの声が途絶え、蠍座が西に傾くと、ピークを過ぎたと感じさせられる。
9月も真夏日が続くが、季節の変わり目を告げるのは、10月上旬に吹く“ミーニシ(新北)”と呼ばれる北からの季節風である。
今年は、季節が遅く動いており、まだミーニシは吹かない。けれども、入道雲の上には、秋へと向かう すじ雲が広がっている。
<クマゼミ (与那国島にて)> ・梅雨(1)(18 June 2005)
沖縄の梅雨は、例年5月初旬のゴールデンウィークの頃に始まり、6月下旬の夏至を過ぎると明ける。
今年は5月2日が入梅日だった。
しかし年はじめの1月から延々愚図ついた空模様が続き、特に2月は毎日雨が降っていたこともあって、あらためて雨季に入ったという実感はない。
梅雨といえば、田植えの時季。また、青梅の季節でもある。
けれども、そのいずれも沖縄にはない。
亜熱帯の沖縄では稲は二期作、場合によっては三期作となる。
田植えは普通3月と8月に行う。
もっとも沖縄本島には水田は殆どなく、石垣島など八重山地方や伊平屋島などの離島に限られる。
梅の実も沖縄では採れない。そもそも梅の木がほとんどないのである。
ところが、にわかには信じられないのだが、沖縄県は梅の消費量が日本でもトップクラスらしい。
その多くが、台湾からの乾燥梅のお菓子のようなのだが…(余談になるが、沖縄で採れない昆布も消費量日本一とのこと)。
それでも梅酒用の青梅は、6月になると本土産がスーパーの店頭に並ぶようになる。
みずみずしいその姿は、1ヵ月遅い本土での梅雨入りを知らせてくれる。
<青梅 (東京 梅ヶ丘にて)>・梅雨(2)(18 June 2005)
今年の沖縄の梅雨は記録的な雨量とのことで、6月は113年ぶりに観測記録を更新した。
特に6月14〜17日の僅か4日間足らずで、梅雨時2ヵ月の平均総降雨量445mmを超える大雨が降った。
今年沖縄地方の梅雨は、例年に比べるとずいぶんと涼しい。
沖縄では梅雨寒ということはないが、いつもなら寝苦しい6月の夜も、今年はクーラーを必要としなかった。
例年、雨上がりの6月の晩には、沢山の羽アリ(シロアリ)がとぶのだが、今年はそれも少ない。
もうすぐ梅雨明けだというのにクマゼミの声もまだ聞こえてこない。
地球温暖化からか、異常気象が日常的になり、平年並みということが少なくなってきたように感じる。
・沖縄本島からの南十字(26 Feb 2005)
沖縄からは、南十字が見える。
それを知ったのは、本土復帰まもない1972年だった。
当時の「月刊天文ガイド」の読者の天体写真に、比嘉保信さんが撮影した南十字があった。
東京でそれを見たのだが、評には「南十字が日本の空に戻ってきました。沖縄の人たちの喜びが感じられる作品です。」とあったのを記憶している。
20年近く経ってから、この写真の話を比嘉さんにしたら、「よく覚えていますねぇ」と笑っておられた。
ところで、実際のところ、沖縄本島から南十字の全景を見るのは大変難しい。
上3つは楽勝なのだが、一番南のα 星アクルックスは大気差を含めても1°ほどしか昇らない。北関東の栃木や群馬から見る南極老人星と同じ高さである。
それに加え、高度の問題以上に難しくしているのは、この時季の悪天候にある。
なかなか晴れない。特に水平線までスッキリと晴れる晩は極めて少ないのである。
1月から3月までは曇天続き。4月に幾分天候が回復するものの、ゴールデンウィークの頃から沖縄は梅雨に入る。6月下旬の梅雨明けには、南十字は日没前に南中を過ぎてしまう。
地元の星好きですら滅多にお目にかかれないのであるから、“春休みに南十字を見に沖縄本島へ”と考えると、期待ハズレとなることが多いので、ご注意を…。
<沖縄本島からの南十字>・八重山からの南十字(26 Feb 2005)
南十字も沖縄本島から500kmほど離れた八重山諸島(石垣島や西表島)まで行くと、格段に見やすくなる。
石垣島の緯度は北緯24°。沖縄本島よりも2°ちがう上、空が暗い。
2001年から2年ほど、石垣島で暮らしていた。
最初の年はひどい悪天候に泣かされた。全景が眺められたのは、梅雨が明けた6月だった。バンナ岳の展望台から眺めた南十字は、石垣の市街地の上にポッカリと浮かんでおり、その高さに驚かされた。
2年目は、春には珍しい好天続きで、八重山からの南十字が堪能できた。
特に印象的だったのは、石垣島の観音崎灯台近くの渚で見た十字星。
浅いサンゴの海は凪で、南十字のα 星と共にケンタウルス座のα、β星が、海面に長々と光芒を映していた。
一人で見ているのが、なんとももったいない星空だった。
<石垣島の海・空・雲>・小さなオリオン(30 Jan 2005)
星の中でも、オリオン座は特に季節を感じさせてくれる星座だ。
日本では冬の星座の代表であり、季節と強く結びついている。
ここ、沖縄で見るオリオンは、本土に比べ10°ほと南中時の高度が高い。
つまり、握りこぶし1個分の違いがある。
さらに南の国へ行くと、オリオンは高度を上げ、赤道直下では天頂で輝く。
初めて、頭上で輝くオリオンを見たのは、仕事で南米コロンビアの首都、ボゴタに滞在した時だった。
その時のオリオンは、びっくりするほど小さかった。
昇ったばかりの月が大きく、高度が上がると小さく感じるのと同じことなのだろうか?
常に地平の風景が目に入る中〜高緯度で眺めるオリオンと違い、赤道直下で正中するオリオンには比較するものがない。
沖縄の場合、残念ながらそこまでオリオンの大きさが違うようには感じられない。
しかしこの島には、身を切るような厳しい寒さがないので、今の時季に見上げるオリオンの印象も、本土とはまた違ったものがある。・冬の沖縄の天気(15 Jan 2005)
冬の沖縄は天気が悪い。11月と12月は晴れの日も多いのだが、1月から3月はウンザリするような曇天が続く。
この時期、冬型の気圧配置になると、沖縄は大陸高気圧のヘリにあたり、愚図ついた空模様となる。
そして冬型がゆるむと、今度は気圧の谷がやって来る。
どのみち、晴れの晩は少ない。
雨量を伴わないので、雨季とは呼ばれないものの、梅雨時よりも星空は広がらない。実際、今年は1月半ばまでに晴れたのは、僅か3晩だけだった。
気温は、東京と比べると10℃は高い。寒暖計が一桁台になることは希で、一番寒い時季でも12〜18℃はある。
だから雪はもちろん、霜が降りることもなく、吐く息が白いことさえ珍しい。
沖縄育ちの長女は、6才の正月に上京した折、「お父さん大変だ!口から何か出ている!」と、初めて見た白い息に驚愕した。
沖縄の冬。気持ちよく晴れれば上等なのだが、鉛色の雲が低く垂れこめ、北よりの冷たい季節風が吹きつける。これが、この島での冬の典型的な空模様である。